連載 No.32 2016年06月19日掲載

 

自然に生まれてくる自分の作風


壁に掛けられたミレーの晩鐘がまず目に付くのではないだろうか。

廃虚の壁にこの古い絵があるだけで、少なからずノスタルジックな印象を受けるが、それだけがモチーフではない。

「この絵があったから撮ったのか」と言われると、微妙に噛(か)み合わないもどかしさを感じる。

小さな壁のひび割れも、ガラスに映る雪の輝きも、

窓から差し込む光と共に、重なり合ってひとつの空間を生みだしている。



何かひとつに注目するのは見る者の記憶に由来するが、

小説の挿絵のように、妙にありがちな空間だと具体的な内容から抜け出すことはさらに難しい。

写真は良くも悪くも被写体に依存している。

「晩鐘の掛けられた廃屋の写真」で終わってしまわないためにどうすればよいのだろうか。



そんな撮影の難しさの中で、少しずつあいまいに、昇華と融合を試みる。

それぞれのモチーフが光の中で溶け合って全体で一枚の絵になるように。

モノクロームでなければできない表現がそこにあると感じているが、

絵画であれば当たり前のことが写真では難しい。



この撮影にも長い時間がかかった。

ほぼ一日中、この窓と向かいあい、何度もレンズの位置を調整する。

少し動かすと画面のコンポジションが大きく変わる。

「木を見て森を見ず」と言うが、どこか一部にとらわれると全体のバランスを見失う。

幸い風はなく、薄暗くなった日没前に4分の露光でフィルムに収めることができた。

余談になるが、窓の中心から絵が左にずれてかけられている。

撮影中は妙に気になったが、仕上がった画面からはそのアンバランスは感じない。



被写体に依存していると言ってもその空間は一様ではない。

たとえ同じ場所に三脚を立ててカメラを構えても、同じものが生み出されるとは思わない。

レンズの前にある空間は無限で、同じ構図の絵であっても切り取られた断面は明らかに違う。



同じ構図で同じ場所を撮影したから盗作だとか、

このアイデアはどちらが先に具体化したかなどという問題は芸術とは無縁で、

簡単にまねのできる芸術はそうあるものではない。

模倣やオマージュを繰り返し、自分の作風は自然に生まれてくるものではないだろうか。



よく訪れる夕張での撮影だが、その後この建物は見当たらない。

長い一日と美しい光に今でも感謝している。

1995年に撮影し、96年の展覧会で発表したが、どちらかと言うと地味な作品なので、

当時一点売れたきりでその後は展示していなかった。

今回20年ぶりにあらためて見てみると、素直に自分の作品だと納得する。

画面の中の絵画に翻弄されていたのは私自身だったのか。